(Hine's 兄さん) 徒然雑記

不定期更新ですが、徒然に思うコトを書きとめてみる

「いただきます」

日本政府が、国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退を表明したが、
反捕鯨国であるオーストラリアなどからは、批判が噴出しています。


IWCでは商業捕鯨の一時中止が1982年から決められていて、
加盟国は商業捕鯨が出来ないでいました。
Iまぁ、元々、WCの設立趣旨は
「鯨の絶滅を防ぐ」という建前でしたが、
反捕鯨を主張する人々の背景には、
「鯨は高等な哺乳類」という思想があってのコトかと思います。


そもそも、日本はクジラの種を枯渇させないよう
細心の注意を払って捕獲をしてきました。
また、日本における捕鯨の歴史は縄文時代に始まるとされるほど古く、
海洋国家日本は鯨と共生してきたといってもよいくらいです。
で、この歴史は戦後直後、別の形で多くの国民が改めて知るコトになります。
それは敗戦直後の日本の食糧事情があまりにも悪く、
鯨肉は貴重なたんぱく源だったことからGHQが捕鯨を承認。
当時、日本人は動物性たんぱく質の4割をクジラに頼っていました。


余談ですが、思い起こせば、幼いころから小学校を卒業する頃までは
家でもステーキにしたりコロをおでんに入れたり、よく鯨を食べていました。
必ずしも、めっちゃ旨いという印象ではなかったですが、自分的には
ブタ肉よりも好きだったかも知れません(笑)。
給食で鯨肉が出た記憶がある方は今50代半ばから上だと思いますが、
ノールウェイ風煮込みとか、ハッキリいって飽きてましたね。
今では懐かしいですけど。


その後、鯨肉の消費は大きく下落します。
1960年代前半は年20万トン以上の消費があったのに1980年には5万トンを割る水準。
1982年のモラトリアムの前に既に日本では鯨肉は主流ではなくなっています。
そして、商業捕鯨禁止後は年間数千トン程度で推移。
70年後半から80年頃にはすでに鯨肉が食卓から消えてしまいました。
今、30代以下の人は食べたことすらない人がほとんどではないでしょうか?
まぁ、ブタ肉や牛肉、鶏肉が主な動物性たんぱく源に変わっていった背景も
ありますが、値段の方も逆転してしまったコトもおおきでしょう。


設立趣旨に反して、IWCが反捕鯨ありきの団体となり、
発展的討議が出来なくなった、とうことでの脱退ですが、
だいたい、食文化的に食べモノとして捕鯨していた日本です。
日本人としては、 食べてもいい生き物、そうではない生き物の線引きはどこ?
と、?マークが点きます(笑)


今年の平昌オリンピック時に、韓国で犬を食べる習慣があることに
一部の国から強い抗議の声が上がりました。
同国内でも賛否両論のようですが、個人的には気持ちいい話ではないです。
でも、それは韓国での話しで、犬を喰えとか云う話しではないので、
どうぞ、ご勝手にといったところです。
だいたい、よその国の食文化に対しどうこういうコトはないでしょう。


それと、植物はなんの問題にもならない・・・何故?
たぶん
「高等な哺乳類」ではなく「植物だから」
キリスト教圏では、
「人間は神が息を吹き込んで魂が宿ったもの」と思われている一方、動物については言及がないため、「魂がない」と思われています。
そのため、牛や豚を食べることについてはなんの抵抗もありません。
ところが、知能指数が高いクジラやイルカについては
「魂があるのではないか」と思うため、食用にすることに抵抗を持つ人が多い。
というコトでしょう。


日本では、鯨やイルカに限らず、哺乳類から魚、さらに植物に至るまで
魂が宿っていると考えている人が多いハズです、そういう文化です。
ですから、日本人的にいえば人間は、
「魂が宿っている生物」を食べずに生きていくことはできないというコトです。
人間は他の動物や植物を食べます、それは動物や植物にとっては気の毒なコトです。
でも、別の目から見れば、彼らは人間へ
「命の布施」を施しているワケで、
したがって、人間のほうがなすべきことは、ベジタリアンであろうとなかろうと、
食料を食べるとき、彼らに感謝の心を持つコト。
その現れが、
「いただきます」という言葉になっているのではないでしょうか。


日本人が食事の前に「いただきます」という習慣は、
「生命を頂いている」ことへの感謝を捧げるという意味です。
その生命への深い理解が太古の昔より日本という国にはあり、
裏打ちされていたと云うコトだと思います。


文化、歴史、伝統の維持、そして「命の布施」というレベルの捕鯨に対する、
日本の伝統への理解を求めていく方が健全であったかもしれません。
この世の中、文化・宗教によって、特定の食べ物を避けたり、
または思わぬものを食べたりするコトはあります。
しかし、大事なのはその線引きではなく、「感謝の心」だけだと思います。