(Hine's 兄さん) 徒然雑記

不定期更新ですが、徒然に思うコトを書きとめてみる

とある面接官の質問が… - 2

面接官のいう、核兵器をなくすにはどうすれば良いか、
という意味の奥には戦争をなくす為にはどうすれば良いか、
という意味があるのかもしれない、と深読みしてしまいそうな質問。


一般的に「戦争」はさまざまな原因が複雑に重なって起こると考えられています。
まず、「所有」という概念の問題。
狩猟採集の時代には、縄張りという概念はあっても、土地の所有という概念は
なかったかもしれない。
獲物がよくとれる草原、魚が沢山いる川、果物が豊富な森は利用すべき重要な場所だが、
自分たちの所有物だとは思っていなかったに違いない。
農耕や家畜の飼育が土地と結びつくことによって、そこは死守すべき重要な財となった。
さらに、化石燃料をはじめとする地下資源が、産業の発展にとって極めて重要な財だと
認識されて以来、土地は最も重要な財になっていった。
国家の「所有」という概念が、領土拡張をさせる原因になる、そしてその概念が
ぶつかり合えば、戦争は簡単に起きてしまう。


で、続いて「愛」という感情の問題。
本来「愛」というものは感情だけではなく、「与え続けるもの」とされるが、
時に人は、愛する者を殺された場合など、復讐の鬼と化す場合がある。
自分の命と引き換えに復讐を遂げようとする者さえいる。
例えば、アメリカがいくらIS(イスラム国)を掃討しようとしても、
イスラム教徒であるIS(イスラム国)を皆殺しにしない限りテロは続く。
なぜなら、愛する者を殺された人の復讐心を消すことは不可能だから。
テロで殺された人の家族もまたテロ組織を憎み、復讐のスパイラルは回り続ける。
テロの後には必ず報復という話になり、テロはさらに拡大再生産されることになる。
「愛」を本末転倒させているのだが、この悪循環を断ち切るのは「寛容」以外にない。


最後に「帰属意識と宗教」の問題。
帰属している集団があることは帰属していない集団もあるワケで、
帰属集団への「愛」は、時に、帰属していない集団に対する憎しみに変化しやすい。
「所有」などの概念により対立している他集団へのコンプレックスが強いとき、
または、人種差別に見られるような至上主義のような帰属意識
宗教対立帰属意識的寛容のない思いから始まる。
本来、「寛容」を説く宗教が「帰属意識」を産み「寛容」のない「愛」を育てる。
ユダヤ人国家イスラエルと周辺アラブ国家間の戦争をみればよくわかるのだが、
他宗教の「批判とか排除」「平和活動」は、絶対に両立しない。
戦争は外交手続きの延長であるというが、その手続きにより平和が訪れても、
政治によりもたらされた平和は、政治的バランスが崩れた時には、
一瞬にして消えてなくなる。


極めつけは「正義」という言葉。
あれやこれやと「平和」について「正義」を振りかざしても、
それは「どこの正義」かと思う。
その「正義」は、どれくらいの規模で語っているのか、すべての人間が
幸せになれる「正義」かどうか、「所有」「愛」「帰属意識」「宗教」
超えた「正義」なのか?


「世界から核兵器をなくすにはどうすればいいですか?」
といった面接官の意図はわからないが、もし、この質問に答えるとしたら、
核をなくす為に必要なのは「与え続ける、寛容という愛」と答えたい。
そしてそれは、「現在の価値観ではない新しい価値観」が生まれるまで
待たないといけないのかも知れない。

とある面接官の質問が… - 1

とある、会社の入試時のコト・・・
面接官「世界から核兵器をなくすにはどうすればいいですか?」
「より強力な武器を作ります」←落ちた~。


というスレッドを見たのだが、
コレって、方法論を聞いてみたいのか?
それとも、本人の考えを聞いてみたいのか?
就職活動中の学生から何を引き出し、どのように採点しようとしたのか?
人事部のお偉いさんに聞いてみたい(笑)
ま、落ちたのは、これだけが理由ではない気がするが、
ネタ的な話しとしてはかな(笑)


だいたい、より強力な武器を作ったとしても、核兵器は、姿を変えてもなくならん。
しかも、「核より強力な武器」は、すでに存在する。


国連で核兵器削減又は廃絶計画が話し合われているという報道もあったが、
では何故、国連が核兵器廃絶を始めようという話しになったか・・・。
核兵器を保有すると維持費がかかり過ぎるし、古くなった核処理も面倒で、
それに環境汚染が深刻。
なので、扱いに面倒な核兵器を使わなくても、さらに恐ろしい「EMP」がある。
ってコトでしょう、または「神の杖」と呼ばれる兵器もある


「EMP」も核は使用するのだが、これまでの使い方とは全く違う。
これまでの「核爆弾・核ミサイル」は、その爆発による熱量が産む殺傷範囲に
重点が置かれていたワケで、「EMP」は如何に強力な電磁パルスを発生させるか、
というトコロが重要。


荷電粒子を急加速することで電磁エネルギーの高輝度爆発を起こすことです。
「EMPミサイル」を発射し、上空大気圏ギリギリの場所で爆発させるこにより、
電気・電子網を全て焼き尽くすことが可能です。
早い話し、飛んでる飛行機はコントロール不能、電車も同じ、墜落するとか、
脱線するとか、とにかくインフラはすべて停止することになる、
もちろんスマホも使えない。
で、その規模が、一発の「EMPミサイル」で、ほぼアメリカ全土がマヒする。
人は残るが文明は破壊されることになる、そうなれば人は生きてはいけない。
その後に来るのは、通常兵器でも脅せるというお話し。


で、「神の杖」という兵器、宇宙プラットホームに小型推進ロケットを装着した
直径30センチ、長さ6.1メートル、重さ100キロのタングステン、
チタン或いはウランの金属棒を搭載するという計画で、
衛星の誘導で地球上のすべてのターゲットを攻撃することができる。


金属棒が地上から1000キロ離れた宇宙から急降下する際のスピードは
時速1万1587キロに達し、ターゲットにぶつかる際の力は核兵器にも引けを取らない。
この新型兵器は反応が速く、命中率が高く、防御不可能なもので、大型建物群や
地下数百メートルにあるターゲットを破壊できる。(電磁波は放出しない)。


で、そうなれば「核兵器のある世界よりも、もっと怖いのは核兵器の無い世界」
ということにはならんのか?


広島・長崎に原爆が投下されて以来、70年以上も使われたことがない。
何故使われないかというと、無差別兵器だから。
いきなり、無差別攻撃は、なかなか「大義名分」が得られない、だから脅しで使う。
ただし、国連には敵国条項が、未だにあるので、日本には大義名分は必要ない。
いつでも、使用可能。


ま、当時のアメリカがどれだけクレイジーだったかがわかるのだが、
「世界から核兵器をなくすにはどうすればいいですか?」
というものを、戦争という外交手続きの延長から考えてみるとどうか。
そんな回答が、この面接官は欲しかったのかも知れない。


つづく・・・

「両班精神」というもの

まずは、この記事。
ほんこん、正解!

と、いってやりたいが、コレって何度も話しつくされてるコトで、
今更感も満載してます。
これより突っ込んだ話はTVでは出てきませんというか、出せません。
そういう意味で、TVでの議論の限界はこのあたりか。


ま、限界を設けているには、なにか旨味があるからか、どうかは、
わからんが、とにかく何度も同じことの繰り返しで、一向に先には進まん。
昔からいわれるているように「約束を守らない」とか「息するたびに嘘を吐く」とか、
それらが日本で「常識として定着」されていないからかも知れない。
というか、ネガティブキャンペーンをする必要はないが、
もう、そろそろそのあたりのコトは、日本人なら理解の及ぶ範囲にしておきたい。


全ての半島人が、そうであるとはいわんが、
すくなくとも。権威・権力を持つほど酷くなる、という傾向はある。
もうこれは「両班」にでもなったつもりなのかも知れない。


さて、事実上、朝鮮半島の身分制度は甲午改革後に廃止された。
甲午改革とは、1894年(甲午の年)から96年にかけての朝鮮の内政改革。
日本の干渉によって成立した金弘集政権の下で、国政事務と宮中事務の分離、
科挙の廃止、銀本位制の採用、身分差別の撤廃などの改革が行われた。
(では、何故、干渉したのかが気になるが、それはまた次の機会にしたい)


ま、その身分制度は廃止されたものの、韓国社会は直ぐには受け入れられず、
現在も尚、階級差別・地域差別の意識が根強く残り、 偏見は収まっていない。
「賤民」の家系というだけで、結婚・就職の障害になっているのは事実です。


「両班」というものは、李氏朝鮮王朝時代において、良民(両班、中人、常人)
賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置した貴族階級に相当する。
現在の韓国においても李氏朝鮮の両班のように志操の高い精神構造を両班精神、
両班意識などと呼んだりする。


高麗時代に「両班」が作られた時は身分階級ではなく官僚制度を指す言葉であったが、
時代が下るにつれ両班の数は増加し、李氏朝鮮末期には自称を含め朝鮮半島の人々の
相当多数が戸籍上両班となっていた。


で、その「両班」なのだが、
マリ・ニコル・アントン・ダブリュイ『朝鮮事情』より引用すると・・・


「朝鮮の貴族階級は、世界でもっとも強力であり、もっとも傲慢である」
「朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。

大両班は、金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。
その者が手際よく金をだせば釈放されるが、出さない場合は、
両班の家に連行されて投獄され、食物もあたえられず、
両班が要求する額を支払うまで鞭打たれる。
両班のなかでもっとも正直な人たちも、
多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、
それに欺かれる者は誰もいない。
なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかつてないからである。彼らが農民から田畑や家を買う時は、ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。
しかも、この強盗行為を阻止できる守令は、一人もいない。」

「両班が首尾よくなんらかの官職に就くことができると、彼はすべての親戚縁者、

もっとも遠縁の者にさえ扶養義務を負う。
彼が守令になったというだけで、この国の普遍的な風俗習慣によって、
彼は一族全体を扶養する義務を負う。
もし、これに十分な誠意を示さなければ、貪欲な者たちは、
自ら金銭を得るために様々な手段を使う。
ほとんどの場合、守令の留守のあいだに、
彼の部下である徴税官にいくばくかの金を要求する。もちろん、
徴税官は、金庫には金が無いと主張する。」
「すると、彼を脅迫し、手足を縛り手首を天井に吊り下げて厳しい拷問にかけ、

ついには要求の金額をもぎとる。
のちに守令がこの事件を知っても、掠奪行為に目をつむるだけである。
官職に就く前は、彼自身もおそらく同様のことをしたであろうし、
また、その地位を失えば、自分もそのようにするはずだからである。」


と、説明されている、現在もこれらは健在ではないか?
自らは働かず、ユスリ・タカリの傲慢さ、それを高貴とみなす意識。
民族としての歴史が、発達段階を辿っていないため、近代思考は望めない。
責任という概念が育たず、近代的な契約の概念は絶望的。
この「両班精神」が息づいいている限り、反日教育は止まらない。


とにかく、朝鮮半島については「けしから~ん!」ではなく、
日本がどのようになれば、「今更感のない議論」をしなくて済むのかを
考えないと、
この「ユスリ・タカリ、を高貴とみなす意識」
いつまでも続くでしょう。

「Get Back」とグローバリズム-2

1969年1月30日にザ・ビートルズがイギリス・ロンドンのサヴィル・ロウにあった
アップル・コアの屋上で、映画撮影のために突如行ったゲリラライヴ。
「ルーフトップ・コンサート」
事実上ビートルズの最後の歴史的なライヴ・パフォーマンスとされている。


まぁ、ご存知の方も多いとは思うが、
このライヴ・パフォーマンスで、3回も演奏されたのが「Get Back」
実はこの曲、当初は『Don’t Dig No Pakistanis』というタイトルが付いていた。
直訳すると、「パキスタン人は不要」


当時、パキスタンから流入してくる大量の移民が、イギリス人労働者の
仕事を奪っていると問題になり、パキスタン人を排除しようとする空気が
イギリス中に広まっていた。
大ヒット中の映画「ボヘミアンラプソディ」で、フレディ・マーキュリーが
ヒースロー空港でアルバイト中に「パキスタン人か」と、からかわれるシーンがある。
フレディは「パキスタン人じゃない!」と反論するが、当時の移民はそういう風に
見られていたコトを現すシーンが見れる。
彼はパキスタン人ではないが移民なので、からかわれるコトも多かったかも知れない。


ともあれ、曲を手掛けたポール・マッカートニーは人種差別を嫌う。
イギリスにあった、パキスタン人への空気に対し逆説的な歌詞で
曲を仕上げようと試みるのだが、かえって問題が大きくなると反対され、
その結果、我々の知る『ゲット・バック』に変更された、という経緯がある。
あの決めゼリフ「Get back to where you once belonged」(元いた場所に戻れ)は、
『Don’t Dig No Pakistanis』の名残。
また、ポール・マッカートニーはその後、
ウィングスで発表した「Give Ireland Back to the Irish」も放送禁止を喰らった。


そして、それから約50年後、移民問題で苦しんだイギリス庶民は
ブレグジットに賛成し、アメリカではまさかのトランプ大統領の当選。
これらふたつの出来事の根は同じで、イギリスでは、国境を越えてやってくる
低賃金外国人労働者に、半世紀に渡って仕事を奪われ続けた自国労働者の我慢が
限界に達し、アメリカでは、職場が国境を越えて出て行ってしまったために、
仕事を失った白人労働者の怒りが爆発した結果であり、それは世界に拡散された。


経済に国境はないが、政治には国境がある、文化にも国境がある。
「ふたつのまさか」は、世界経済の主流となったグローバリズムに対し、
それぞれの国の労働者が投票行動をとおし、政治によって、
ストップをかけようとした点で共通する。
第45代アメリカ大統領に就任したトランプさんを、クレイジーと評する面もあるが、
「反グローバリズムパワーの代弁者」と認識すべきで、日本政府や財界は、
トランプ大統領が、従来の世界経済体制に理解を示すなどと、決して考えたり、
期待しない方が良い。


4月に米中の首脳会談が予定されているらしい「アメリカと中国の貿易戦争」という、
グローバリズムによる自由貿易への結論が出る。
で、これでなんらかの合意があったとしても、中国の譲歩でしかない。
もう、以前のようなグローバル化一筋のような世界には戻れない。
すでに「グローバリズムの後の世界」へ移ってしまっている。
そして残念なコトに、この世界の大潮流に追いつけていない国がある。
それは日本とイタリアの政治。


日本政府は外国人労働者の大量受け入れを行おうとし、TPPで主導的立場をとり、
中国経済へ再接近しようとしています。
今更、グローバリズムの優等生的な活動を始めるワケですが、
何故こうも、オワコン(終わったコンテンツ)を取り入れるのか?
マイナンバーしかり、TPPしかり、移民しかり、です。


イタリアとの類似点、共通点は、日本もイタリアも中国に接近しているコト、
そして、両国ともにGDPに対する「政府の赤字」が先進国の中で最も多い。
日本は無論1位・2位がイタリア。(政府の赤字は国民の赤字ではないので要注意)
中国とより良い経済関係を持てば、政府の赤字が解消されるとでも思っているのか?
何を見誤っているのかはよくわからないが、世界のトレンド・潮流は、
反グローバリズムであり、正しい判断であるとは到底思えない。


すでに、世界各国の投資家・経営者など、世界の行く先を
いち早く見ようとしている彼らが、グローバリズムの終焉に舵をきっている。
国境を超えた生産や流通は、今後しばらくの期間、停滞していくものと腹を括り、
内需の創出に知恵と資源を投入しようとしている、というかそうせざるを得ない。


というワケで、「国家という古い枠を超えて」とか「世界はひとつ」とか
結局、社会主義的な考えでは、上手く世の中を回せない。
なのである意味「Get Back」で、いいのではないかと思う。

「Get Back」とグローバリズム-1

1950年頃から始まったグローバリズム・グローバル化。
どこの国も国家をあげて、この大きな流れに乗ってきたワケですが、
この70年ホドで、結果がでてしまい、勝者と敗者がハッキリと
わかってしまいました。


勝者というのは、支配層、エスタブリッシュメントといわれる人達。
政治家・マスコミ・大企業。
敗者はそれ以外の方々、庶民・労働者・中小企業。


これは、当初のグローバリズムの目指したものとは違った結果を生んでいます。
まぁ、世の中、何事にも「本音とたてまえ」があるので、そこを利用できる
立ち位置にあった人達が勝者となった、というワケ。
グローバリズムのお題目である「国家という古い枠を超えて」とか「世界はひとつ」とか
結局、敗者となった方々には縁遠いうたい文句でしかなかった。


さて、アメリカの労働賃金は現在1970年代後半にまで、回復したそうです。
今、全体的に経済の景気が良いとされているアメリカでさえ、コレです。
確かに、グローバリズムが始まった頃は、雇用も増え、賃金も増加していました。
ところが80年代に入り、先進各国は、賃金を抑えるため、労働力の安い国へと
生産拠点を発展途上国へ移します。
理由は簡単で、その方が儲かったから。


そうなれば、モノは安くなりますが、それと同時に労働賃金も下がってしまいます。
例えば、自国の見積りと発展途上国の見積りを比べれば、
やはり、発展途上国の見積りの方が、同じモノを作る場合、かなり安く作れる。
なぜなら、労働賃金に差があるから。
そうなれば、発展途上国並みに見積りを下げなければ、自国に仕事が残らない。
自国というか、中小企業に仕事が残らなくなるので、労働賃金を下げなければ
ならなかったのが現実、それでは誰の暮らしも良くならない。


そして、そこへ追い打ちをかけるように移民労働者が溢れ、
移民まで労働者の税金などで、養わなければならなくなった。
「国家という古い枠を超えて」とか「世界はひとつ」とか、そのような理念が
生み出したものは、労働者たち庶民の貧困化でしかなかった。


そのような出来事が、かれこれ20年ホド続いています。
当然その反動も大きく、フランスのイエローベストや、イギリスのブレグジット
アメリカのトランプ現象
世界を均一化し、文化的アイデンティティとか宗教や、
政治が重複する政府という不鮮明な超国家(EUのような)への反対を示しだした。


そしてこれらは50年前、すでにThe Beatlesの「Get Back」で主張されていた。


つづく・・・